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東京高等裁判所 昭和58年(う)991号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人樋口家弘作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官窪田四郎作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。なお、弁護人は、第一回公判期日において、控訴趣意第二に法令適用の誤りとあるのは、法令適用の前提となる事実認定の誤りを主張するものであって、事実誤認の趣旨であると付陳した。

控訴趣意第一(被害者Aに対する承諾殺人の主張)について

論旨は、要するに、被告人の夫である被害者Aは、一家心中することに同意していたのであるから、刑法二〇二条所定の被殺者の承諾があったものと認むべきであるのに、原審弁護人の同旨の主張を排斥し、Aに対する普通殺人(刑法一九九条)を認定した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

およそ一家心中には様々な形態が考えられるのであって、ことに成人男子の場合、一家心中に同意したからといって直ちに刑法二〇二条所定の被殺者の承諾があったものとなし得ないことはいうまでもないところであり、所論は既にこの点においてその前提を誤るものであるが、以下証拠関係に照らし、本件の具体的場合における被殺者Aの承諾の有無につき検討することとする。

一  関係証拠を総合すれば、被告人の生い立ち、結婚歴、Aと結婚してからの家庭生活、長女B子(当一四年)及び長男C(当一一年)の誕生、保母住宅である肩書地のD寮において、世田谷区役所や同区立砧図書館に勤める傍ら同寮の管理人を兼務するAの補助として、寮生の世話に当っていたこと、Aに内緒でサラリーマン金融業者や寮生から借金を重ねていたこと、寮生E子から委託された金員の管理や寮生の電気代の徴収金額等について寮生の間に疑惑が高まり、その噂が相当広まっていることを知るに及び、当初は自殺を、次いで一家心中を決意するに至ったこと等については、原裁判所の認定した事実第一項ないし第四項記載のとおりであることが認められる。

二  次ぎに、被告人が、昭和五八年二月一三日午後一一時三〇分ころ、夫婦の寝室である同寮一階面談室八畳間において、Aに一部始終を告白してから、A及びCの両名を殺害するに至る犯行経過の大要は、原裁判所の認定した事実第五項記載のとおりであるが、争点の判断に必要な限度において若干補足して以下に摘記する。

①  被告人は、同月一三日午後一時ころから午後三時四〇分ころまでの間、京王線千歳烏山駅付近の喫茶店「コーヒー亭」でE子と会談した後、自殺を決意し、帰途、催眠作用のある鎮静薬リスロンS三〇錠入り及び文化庖丁一丁を購入して午後四時ころ帰宅したが、午後六時三〇分ころ、寮生のF子から、寮生が同月一五日夜、Aを交えて被告人と話合いを持ちたい旨伝えられるや、最早寮生間の疑惑がAに露見する事態は避けられず、このうえはAや子供達を道連れに一家心中する以外にないと思い詰め、冷蔵庫の中味や下着類を始末するなどして身辺を整理する傍ら、子供達に前記鎮静薬を飲むよう勧めたが、B子はこれを断り、Cは、明日の遠足で興奮して腹痛を起さないための薬だと説明されて午後九時ころ八錠を服用し、目覚時計を午前五時に合わせて就寝した。

②  被告人は、同月一三日午後一一時三〇分ころ、前記八畳間においてAに対し、E子から委託された金員や電気代のことで疑惑を招き、寮生会議に夫妻で出席するよう申し入れられたこと、寮生やサラ金業者に多額の借金があることなど、一部始終を告白した。これを聞いたAは、顔色も蒼ざめて震え出し、B子の病気やAの多趣味で出費が嵩み、借金を重ねるようになったとの被告人の弁明に「そうか」と溜息まじりに答え、「もう駄目だな。こんな噂が役所に知れると、俺も勤めをこちらから辞めなければいけないし、前から言っていたとおり、お金のことでは一家で死ぬより仕方がないんじゃないかなあ。」と言った。被告人は、わっと泣き伏してAに詫び、「どうして打たないの。」と訊ねたが、Aに「打っても仕方がないだろう。」と言われて、ますます激しく号泣した。Aが、「そんなに泣くとCが起きるぞ。」と言うのに対し、被告人がCには既に薬を飲ませて眠らせてあること、新しい庖丁を買って来たことを説明し、枕元の布団の中に忍ばせてあった庖丁を示した。

③  Aは、眠っているCの姿を見ながら「Cは俺になついているから、俺がやる。B子はお前がやれ。お前はB子と一緒に行け。」と言い、被告人が自分の下着を始末したことを話すと、「俺も少しずつ準備をしなくちゃ。汚いものは整理しよう。」と六畳間の箪笥から自分の下着類を出して来て、被告人に捨てて来るよう命じた。

④  その際、Aは、台所からステンレス製の庖丁を持参し、無言で枕元の畳の上に置いた。被告人が下着を捨てて八畳間に戻ると、Aは布団の上に坐り、じっとCを見ていた。夫妻は、それから三〇分位、一緒になったときのこととか、B子の登校拒否で苦労したことなど、思い出話を交わしていたが、Aは、翌一四日午前一時を過ぎるころになると、Cの顔をさもいとおしそうにじっと見つめ、黙り込むようになった。

⑤  その様子を見た被告人は、AがCを殺すのを躊躇していると感ずるとともに、今度のことはもともと自分のルーズな金銭管理から出たことであって、そのため、AにCを殺すような辛いことをさせたり、死んだ後まで子殺しをしたと後指をさされるようなことをさせてはならないとの思いが募り咄嗟に、今、Aに薬を飲ませて、眠ったら直ぐAを殺してしまおう、そうしないと、結局、AがCに手を下すようなことになるとひそかに決意するに至り、台所へ行って前記鎮静薬一二錠と水を用意し、興奮して身体を震わせているAに対し、催眠作用のあることを秘し、興奮を鎮める薬だからと言ってこれを服用させた。

⑥  その後、夫妻は、サラリーマン金融業者や寮生に対する借金の細かい内訳などについて語り合ったが、約一時間経過した午前二時ころになると、話しているAの舌がもつれるようになり、同人は、「何か身体がおかしいな。だるくなった。」と言って、そのまま自分の枕のところに横になり、被告人に対し、「起こせよ。お前一人でやるなよ。」と言いながら眠り込んでしまった。

⑦  被告人は、暫らくAの寝姿を見ていたが、眠っているうちにやらなくてはと気を取り直し、布団の間から庖丁を取り出して両手で握り、Aの左胸部付近に突き立てようとしたが、どうしても刺すことができず、何度かそのようなことを繰り返し、時間だけが過ぎ去り、頭の中も朦朧として来たころ、Cのかけておいた目覚時計のベルがけたたましく鳴り響き、午前五時を告げた。

⑧  被告人は、咄嗟に、Aが目を覚ますと思い、ベルを止めに行ったが、その際、箪笥の上に置いてあったAのネクタイに偶然手が触れたため、早くしないとAや寮生達が起き出して来るという思いに急き立てられるまま、右ネクタイで、就寝しているA及びCを順次絞殺するに至ったものである。

三  以上の認定事実に照らし、被殺者Aに殺害されることの承諾があったか否かにつき考究する。

本来、刑法二〇二条所定の被殺者の承諾は、事理弁識能力を有する被殺者の任意かつ真意に出たものであることを要するとともに、それが殺害の実行行為時に存することを必要とするところ、前示のとおり、本件の被殺者Aは、殺害の実行行為の時点においては、被告人に飲まされた鎮静薬の作用により熟睡中であって、右の承諾をなし得るような心神の状況にはなかったのである。

そして、Aが最後に意識を有していた同月一四日午前二時ころから殺害行為の行われた午前五時ころまでの間に三時間を経過しているのであるから、この間、Aが就寝することなく被告人と一夜を語り明かした場合、あるいは、一旦就寝したとしても、犯行直前に被告人がAを起こして一家心中の話を持ちかけた場合、犯行時点におけるAの心境が就寝直前のそれと全く変るところがなかったであろうか否かは、今となっては知るすべもないところである。冷静な第三者の立場からすれば、被告人夫妻が罪のない子女二名を道連れにして一家心中を決行しなければならない客観的必然性に乏しいと見られる本件の場合、深夜突然被告人の告白を聞かされて動顛したAが、鎮静薬や庖丁まで用意した被告人の固い決意に動かされて、一家心中に同調するような行動に出たとしても、右の失なわれた三時間の中で、幾分なりとも冷静な判断力を取り戻し、一家心中の決意を鈍らせるか、少くともその決行時期を再考する可能性が全くなかったとは言い切れないものがある。

四  しかし、このような仮定の論議のみで、犯行時点におけるAの承諾が認められないと断定するのは、被告人に対して酷であろう。そこで、就寝直前の時点で、Aに殺害されることの承諾が認められるか否かについて、次ぎに検討することとする。

Aは、昭和五四年一一月ころ、被告人が約二年前から同人に内緒でサラリーマン金融業者から借金を重ねていたことを知って被告人を厳しく叱責し、その後は、再びこのような金銭問題を起こして役所に知れ渡れば一家心中するほかないと口癖のように言っていたものであり、それは、一面において、被告人に対する強い警告であるとともに、他面、尋常小学校しか出ておらず、都営のトロリーバスの車掌から世田谷区役所の職員に採用され、その職に強い誇りを持ち、役所への体面に神経質なまでに気を使うAの本心でもあったと思われる。

そこで、被告人から突然金銭上の不始末を告白され、身体が震えるほどに動顛したAが、かねての考えどおり、一家心中するしかないと思い詰め、被告人にその用意があることを知って、自らも下着を始末したり、庖丁を用意するなど、被告人に同調するような行動に出ていることも首肯できるのであって、これらの事情から、当時、Aの念頭に一家心中という考えが浮んでいたことは確かである。

しかし、原判決の指摘するように、Aが被告人に対して一家心中する時期や方法などについて提案、相談したことは全くないうえ、庖丁を手にするような挙動をも示していないことからすれば、当時、Aの胸中に一家心中という漠たる思いはあったにせよ、その具体的実現についてはなお決断がつきかねるまま、遅疑逡巡していたものとみられ(台所から庖丁を持参したのも、被告人から庖丁を用意していることを示され、惑乱した心境でこれに同調する挙動に出たに過ぎず、庖丁による刺殺という手段を確定的に選択した行動とは認め難い。)、仮りに、その決意がより具体的、強固なものであったとしても、一家心中するとの決意が、直ちに殺害されることの承諾に結びつくものとは、到底言い得ないのである。すなわち、一家心中の合意は、家族の中に自殺の意義を理解できず、あるいはその能力を有しない子女が含まれる場合には、親がこれを手にかけて殺害するということは含まれるにせよ、成人相互の間にあっては、基本的には、同時に自殺を決行することの合意である。もとより、その方法としては、成人の一方が他方を殺害した後に自殺を遂げるとか、刺し違えのように、相互に相手を殺害するという手段によることも可能であり、かかる手段が選択された場合には、被殺者の承諾があったものと考える余地は認められる。しかし、そのためには、当事者間において、そのような手段を選択し、一方が他方を、あるいは相互に相手を殺害することについての具体的な合意の存することが必要であるが、本件にあっては、かかる事実は何ら認めるに由ないところである。Aは、「Cは俺がやる。B子はお前がやれ。」と子女殺害の役割分担は指示しているが、夫妻の自殺する方法については、何らの指示もしていない。被告人に対し、「お前はB子と一緒に行け。」と言っているが、その趣旨は、B子の跡を追って自殺せよということか、Aが被告人を殺害するということか、判然としない。いずれにせよ、子女を手にかけた後、Aが被告人に殺害されることを承諾した趣旨と解されるような発言や挙動は一切認められないのである。

しかも、Aは、それと知らずに飲まれさた鎮静薬の作用で入眠するに際し、被告人に「起こせよ。一人でやるなよ。」と命じているのであるから、一家の首長として、一家心中の実行を自らの決断と指示にかからせる意思を表明したものと見られるのであって、睡眠中に被告人によって殺害されることは、Aの最も予想しない事態であったものと言わざるを得ない。

叙上縷説のとおりであって、本件殺害行為の時点においてはもとより、就寝直前の時点においても、Aに刑法二〇二条所定の承諾があったものとは認められないから、これと同旨に出た原判決の事実認定に所論の誤認はなく、論旨は理由がない。

控訴趣意第二(誤信による承諾殺人の主張)について

論旨は、要するに、被告人は、Aの言動からAに心中の真意があると信じており、そのように信ずるにつき通常人として首肯し得る状況が存したのであるから、承諾殺人の意思を以て普通殺人の結果を発生させたものと認むべきであり、原判決にはこの点の事実誤認があるというのであるが、心中の意思と刑法二〇二条所定の被殺者の承諾とを直ちに同視し得ないことについては、さきに説示したとおりである。

被告人は、子女を殺害した後の夫妻の自殺の方法につき、「私とお父さんが一緒に死ぬについては決めていませんが、私は庖丁を買って来ており、ほかに家にも庖丁が何本もありましたので、夫婦は刺し違えて死ぬと決めていたのです。」とか、Aが台所から持って来た庖丁を「黙って置いており、私には具体的にそれで今後どのようにするかという話はしませんでしたが、庖丁がそれまで一本だけだったので、その時私なりに、もう一本の庖丁は、主人がCを殺したり、その後私と刺し違えて死ぬなりするのに使うのかなと思いました。」などと述べているが、前者は被告人限りの内心であってAの意思とは関係なく、後者も、これに引き続く問答で、Aがそのような言動を示したことは一切なく、「ただ私が推測しただけであり、そのようなことはハッキリ判りませんでした」と述べているように、単なる臆測に過ぎず、Aの意思を確定的に認識したものとは見られない。被告人も、自分からAに対して刺し違えを提案したり、Aの方からそのような提案がなされたことはなかった旨、原審公判廷において自認しているところである。そして、現実にも、刺し違えという方法は実行されず、睡眠中のAを被告人が一方的に絞殺するという結果に終っているのである。

むしろ、被告人は、一家心中がAの主導する形で決行されるのを阻止するため、偽ってAを眠らせているのであって、「起こせよ。お前一人でやるなよ。」という最後の言葉からも、睡眠中に同人を殺害することが同人の意思に反するものであることは充分承知していたと自認しているのである。

以上のとおり、被告人において、Aが殺害されることを承諾しているものと誤信していたと認めるに足りる証拠はないから、論旨は理由がない。

控訴趣意第三(量刑不当の主張)について

被告人は、生後三日で養女に出されるなど親の縁が薄く、また、G、Hとの結婚生活にいずれも失敗し、Aとの間にはじめて幸福な家庭を築くに至ったものであって、それだけに、Aとの結婚生活をこよなく大切に思い、これが音を立てて崩壊する危機に見舞われ、一家心中以外にないと思い詰めるに至った心情は同情に値するものがある。

しかし、原判決も指摘するように、このような破局に陥ったのは、被告人の放恣な金銭感覚と、夫に内密で独断専行した行為の結果であり、その解決方法として一家心中を選んだのは、Aの平素からの言動や性格に影響を受けたものとはいえ、やはり軽卒かつ短絡的であったとの評価を免れない。他方、被告人によってその生命を絶たれるに至った被害者両名には何らの罪科もなく、ことに、翌日の遠足を楽しみにし、被告人に言われるままに鎮静薬を飲み、目覚時計をかけて就寝した幼ないCの死に至っては、まことに不憫というほかない。被告人の刑責はあまりにも重大であって、原判決の指摘する被告人に有利な事情に所論諸事情を加えて判断しても、原判決が被告人を懲役七年に処することとしたのはやむを得ないところと言わざるを得ず、その量刑が重過ぎて不当であるものとは認められない。論旨は理由がない。

よって、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 草場良八 裁判官 半谷恭一 須藤繁)

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